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概史:2014年(H26年)入学 占部主将

30年間の全主将が思いを綴る1991〜2020年の概史より、2014年(平成26年)入学の荒木主将の寄稿を先読み!

私たちの学年(2014年入学)は、当時のラグビー部としては最多の27人で入部しました。最後まで1人も減ることなく、同期と過ごした4年間は私の人生の中でもかけがえのない時間でした。

その中で私は、同期を代表するキャプテンを務めさせていただきました。筑波大学ラグビー部キャプテンの選出方法は、その代の任意の方法で決定するのが伝統です。私は自らの意思でキャプテンに立候補し、同期は拍手で受け入れてくれました。同期には感謝しています。「先輩方が残してくれた筑波のラグビーを次の世代に繋いでいきたい。そのために、先頭に立って筑波のラグビーを体現する。」そんな思いから立候補したのですが、その想いに至るまでの私の4年間に、筑波大学ラグビー部の魅力が詰まっていると考えていますので、いくつかの体験談をもとに紹介させてください。

【挫折と変化】

入学早々、東日本大学セブンズ大会にて7人制ではありますが、公式戦デビューを果たし、チームも優勝することができました。順調にスタートを切ったと思った矢先、自身の若さゆえ、部に迷惑をかけて1ヶ月間休部しました。復帰後、Aチームを目指しましたが、中々Aチームでの出場機会は巡ってきませんでした。理由は明確で、大学ラグビーで通用する体ができていなかったからです。入学当初の体重は78キロ。大学ラグビーのFWで戦っていけないと自分でも感じていました。そこで私は、体重90キロを目指し、日々のウエイトトレーニングとグラウンドでのトレーニングに加え、食事もトレーニングとして取組みました。朝昼晩の3食に必ず米を2合、食間と寝る前にプロテイン、豆腐2丁、卵2個、納豆2パックを食べる生活を、最初は吐きながら半年間続けました。その結果、半年で体重90キロに到達しました。後輩たちには、こんな体作りは絶対に参考にして欲しくないですが、目標に向かって努力すること、特に数字が見える目標に対しては、貪欲にこだわって欲しいと思います。そこで得た成功体験は、必ず今後の人生で生きてくると思います。 筑波大学ラグビー部は、良い意味でも悪い意味でも自由です。自身の成長は自分にどれだけベクトルを向け続けられるか、どれだけ自分を律することができるかが重要だと身に染みて感じました。寮もなく、自分自身で日々の食事管理等が必要な上に授業も大変です。逃げ道や言い訳なんか沢山あります。ですが、後輩たちには、自分で筑波大学ラグビー部を選んだのだから、その道が正解になるよう努力をして欲しいと思います。

【尊敬する先輩】

同期が次々と対抗戦デビューする中、対抗戦終盤の6戦目、慶應義塾大学戦(筑波29-36慶應)でやっとリザーブの20番でチャンスが巡ってきました。とても嬉しかったですが、平日昼のメンバーのみの練習の際、1人の先輩が、「なんで〇〇さん(僕の代わりにメンバーから外れた4年生)がメンバーじゃないの?〇〇さんが良かった。」と話しているのが聞こえました。悔しかったと同時に、メンバーとしてジャージを着ることの責任感が芽生えました。メンバーから外れた4年生は、悔しかったはずなのに、嫌な顔一つせず、ラグビーでも、私生活でもサポートしていただきました。そして、その先輩が卒業の際、ホワイトオンブルーの「尊敬する選手」に私の名前を挙げてくれたことは、今でも忘れません。こういった先輩、後輩の関係性を築くことができることも筑波大学ラグビー部の魅力の1つだと感じています。

【決意が固まった試合】

2017年対抗戦最終戦、帝京大学戦(筑波24-29帝京)、1学年上の忽那組が選手権に進めないことが確定した最後の試合でもあり、私が自分たちの代でキャプテンを務めることを決意した試合でもあります。私は、後半20分に怪我で途中交代したため、ベンチで最後の瞬間を見届けました。外から俯瞰して見ていた分、試合を冷静に見ることができていました。この試合の忽那さんは、泥臭くひたむきな筑波のラグビーを体現されており、改めて「筑波のラグビーが好きだ。筑波の歴史、先輩方の想い、ラグビーを自分自身が先頭に立ち、体現する。」と強く決意しました。 その後、同期の鈴木啓太に連絡をとり、直接思いを伝え、バイスキャプテンに就任してもらいました。主務には、私と鈴木啓太の考えが一致し、鈴木隆文に任せ、3人で占部組のチーム作りをスタートしました。

【最後に】

続きは、記念誌にてお楽しみ下さい。。

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