概史:1974年(昭和49年)入学 橋爪主将
筑波大学ラグビー部一期生の誇りと伝統の継承
1974〜77年入学年次代表の橋爪主将(筑波大学ラグビー部一期生)の寄稿を先読み!
【東京教育大学ラグビー部・保谷寮への入寮と先輩からの学び】
1974年(昭和49年)春4月、希望に胸を膨らませて筑波大学ラグビー部一期生の学生生活は、東京教育大学ラグビー部の保谷寮から始まった。東京の保谷寮には東京教育大学ラグビー部諸先輩の2年生から4年生までが暮らしていた。そこには大きなラグビー場も完備されていた。筑波大学はあと少しを残して未完成で入寮もできない状況だった。私たちは、布団一式を保谷寮に送って学生生活をスタートした。そしてその保谷ラグビー寮で、東京教育大の先輩方から伝統の重みと大切さを学んだことは一生の誇りとなり、人生の大切な指針となった。東京教育大学の諸先輩方が全て卒業されるまでの3年間(保谷ラグビー寮が閉鎖されるまでの期間)は、筑波大学一期生はラグビー部諸先輩が築いてこられた良き伝統のバトンを受け取るのに十分な時間となった。何も分からない私たち一期生を育てていただき心より感謝している。
【感謝・伝統】
一、筑波大学ラグビー部一期生の入学とともに、「東京教育大学ラグビー部」から「筑波大学ラグビー部」へ、関東ラグビーフットボール協会に名称を変更登録していただいた。(2年生から4年生まで東京教育大学ラグビーで誇りを持って戦ってきたのに、東京教育大学の沢山あるどのクラブよりもいち早く名称を変更登録していただいた。)その際、先輩方より、「筑波大学ラグビー部一期生入学に敬意を表して、また今後の筑波大学ラグビー部の発展を祈って一期生が入学の4月に名称を変更して新しいスタート切ろう!」と。私たち筑波大学ラグビー部一期生は、涙が出るほど先輩の思いが嬉しかった。先輩方の真心をしっかりと受け止め、一日でも長くこの先輩方と練習に励み公式戦に一つでも多く勝利し恩返しがしたいと心より誓った。
一、保谷寮では、一部屋に、4年、3年、2年、1年(筑波大学一期生)の4人が基本で一緒に生活していた。諸先輩方にはよく朝食を面倒見ていただいた。偉そうにする先輩は一人もいなかった。皆自分の事は自分でやっていた。保谷寮には、兄弟のような関係があった。兄は私たちを弟のように可愛がってくれ、私たち弟は兄のように慕う、そんな麗しい伝統があり、先輩に何でも相談できた。だから、心の絆が深くなるほど、また仲良さが増すほどラグビーも心より楽しく見違えるほど強くなっていった。
一、保谷寮では、夕飯を食べに先輩と共に保谷の町によく出かけた。行きつけの店がいくつもあった。特に寮の近くのパン屋さんは、閉店間際に行くといつも「教育大ラグビー部のみんなで食べてね!」と沢山のパンをくださった。持ちきれないほどだった。また、お店に教育大ラグビーの公式戦の試合の写真がパネルで沢山飾ってあった。「息子が中学生で教育大ラグビー部の大ファンで写真部で文化祭に出したのよ!」と店主の奥様が話してくれた。どの店に入っても、東京教育大学ラグビーの先輩方は、信頼があり、店の方々も東京教育大学ラグビーが保谷市にあることが誇りであると口々に言っていたことが忘れられない。町の沢山の方々から喜ばれている先輩方が、誇らしく嬉しかった。東京教育大ラグビー部の先輩方がしっかり何年もかけて築いてきた地域との信頼を肌で感じラグビー部で良かったと、心より感じた。だから、練習試合や公式戦が保谷グラウンドで行われると地元の応援が凄かった。町の多くの方々に愛されていた。
【誇り】
①「ラグビーの良き師匠に出会えたこと」
江田昌佑先生(ヘッドコーチ)、高森秀蔵先生(コーチ)の二人だ。わが人生の師匠ともいえる。
「何があっても最後まで諦めない!」
「何事も楽しくなければ続かない楽しさの追求!」
「ラグビーは自由奔放に頭を柔らかく、人生も同じだ!」
との指導だった。4年間の練習、試合はこのお二人の偉大な先生のお陰で楽しく、充実した日々を過ごせた。社会人になっても、とても大切なことを心に染み込ませていただき無事定年を迎えることができた。
お二人の先生には心より感謝している。
② 「良き同級生と後輩に出会えたこと」
筑波大学ラグビー部一期生は全部で14名。皆、人柄が抜群で、あっという間に打ち解けて、仲の良さはどこのクラブにも負けなかった。
続きは、記念誌にてお楽しみ下さい。。
筑波大学ラグピー部一期生 主将 橋爪明信